[comes loose]
 
  
 

comes loose 2 「その手は思いがけないほど温かかった」

 すでに何度も通い慣れた道筋を、今夜も俺はこっそりたどる。空にかかった見えない道。塀も堀も俺には関係ない。門番は問題だけど。バルコニーに降り立つと、ガラスの戸を小さく二回ノックする。すぐにぱたぱたと足音が近づいてきて、片方の扉が静かに開かれた。
「こんばんは」
胸より低いところにある少女の頭に声をかける。が、少女は下を向いたまま答えない。不思議に思いながら黙っていると、ふとこの間言われたことを思い出した。
「こんばんは、ヴェネラ」
教えてもらった彼女の名前を付け足す。すると少女は顔を上げて、はにかむように笑った。俺もつられて笑顔になる。
「それにしても、前に言っただろ。バルコニーに出るときは上着を着ろって」
俺の言葉で気づいたのか、ヴェネラは慌てて上着をとりに戻った。それにしてもなんにでも一生懸命な子どもだ。上着を取りに行くのにも全力疾走。戻ってきた彼女は少し息をきらしていた。そんなに慌てなくてもいきなり消えやしないのに。
「お疲れさま。ほら、持ってきただけじゃ意味ないだろうが。早く着ろ」
言われるまま暖かそうなガウンに袖を通す少女を俺はぼーっと眺めていた。なんでこんなに一生懸命なのかよくわからない。俺に会うのがそんなに楽しみだったのだろうか。確かに俺は、大げさでなく子どもにもてる。奇術やら花火やらを披露してみせる見せ物師はいつの時代も子どもから尊敬と憧れの眼差しを受けるものだ。だけど、この子の場合は少し違っていた。驚きと好奇心で目をきらきらさせながら、でも見ているのはたぶん俺の術じゃない。俺自身だ。俺のどこがそんなにおもしろいのか、理解できないが子どもから楽しみを奪うのも気が引ける。初めて会ったあの日から、俺は、近くを通りかかったときには、必ずこの屋敷に立ち寄るようにしていた。自分でもずいぶん暇な奴だとは思う。
「ねぇ、今夜はいつまでいられるの」
ふいにそんな言葉をかけられて、俺は思わず目をむいた。
「そんな言葉、どこで覚えてきた」
まるで、人目を忍ぶ恋人同士みたいじゃないか。でも彼女はきょとんとして不思議そうな顔をしている。なんでもないと言って、へたな笑顔を貼り付けた。何年も余分に生きてると、変なことにまで頭が回って困る。
「まぁ、今日は月が沈むくらいまでかな」
西の空に傾いている月を見て言うと、ヴェネラは残念そうな顔をした。
「そう」
そのまましばらく黙り込む。俺がなにか声をかけようとしたとき、彼女がすっと顔を上げた。
「じゃあ、今日は私がお話ししてあげる」
嬉しそうに微笑むと、ヴェネラは俺の服の袖を引き、しゃがむように促した。それに従って小さなテラスの床にしゃがみ込む。今日は裾を引きずるような服は着ていなかったから、それについては気にせずにすんだ。
「これは、父様と母様が出会う前のお話なの」
そう前置きすると、彼女はテラスに置いてあった子供用の椅子を引っ張ってきて俺の隣に座った。

「というわけで、父様と母様はくなんのすえに結ばれて、私が生まれたんだって」
目を輝かせながら話す子どもに大人目線の感想を述べるほど俺は野暮ではない。というか、それ、絶対嘘だろ。彼女の両親が乗り越えたという苦難は絵本の王女に起こるような、とんでもない内容で、俺はとうてい信じる気になれなかった。
「じゃあ次は、この屋敷のどこかに隠されているという財宝の話ね」
「あ、あぁ……」
思わずうなずいてしまって後悔したが遅かった。その話もとんでもなく非現実的で、疲れる内容だった。頭が重い。
「じゃあ次は……」
「ちょっと待った!!」
ようやく口をはさむことに成功した俺は、きょとんとしたヴェネラと目が合い言葉を詰まらせた。子どもの楽しみを奪うのは気が引ける。気が引けるが……このまま聞き続けて、彼女の夢を壊さない自信がない。
「えーっと、次はさ、俺がとっておきの奇術を見せてやるよ!」
精一杯、興味を引こうととびきりの笑顔をみせるがヴェネラの反応は薄かった。首をかしげてじっと俺を見つめてくる。俺は彼女のこういった視線が不得意だった。その辺に転がっている子どもたちとは少し違う視線。なんというか、見透かされていそうでなんとも不安な気持ちになってくる。金さえもらえれば人の心を読んだりもする俺だが、自分がそういう立場に置かれるのは居心地が悪い。
「……私の話、おもしろくなかった?」
「いや、そうじゃないけどね?」
まぁ、簡単に言えばそうなのだが、つまらないというより、なんとなく聞いているのに忍耐が必要で、その忍耐が俺には備わっていなかったという話だ。しかし、そんな俺の心中を察したのか、ヴェネラの顔がどんどん曇っていく。俺は嫌な予感が立ちこめてくるのをひしひしと感じた。
「……でも、全然楽しそうじゃない……」
あとひとつつきすれば泣くかな。などと俺の頭の一部は冷たい事を考えていた。でも実際には泣かせたいわけがない。こういう時こそ、本来の実力を発揮する時だ。
「ちがうちがう、俺はな、あんたが何をすれば喜ぶか考えてたの!」
まんざら嘘でもない言葉を吐くと、俺はたちあがり、肩の力を抜いて手をぶらつかせた。
「ま、見てろよ」
そう少女に告げると、何もない夜の闇の中に指で四角を描く。指の後を追いかけるようにして白い光が伸び、宙に四角の窓が浮かんだ。どうだ、と俺が振り返ると、ヴェネラはいつもの表情に少しだけ驚きを加えて俺の前に浮かんだ四角を見ていた。ちょっとだけ失いかけていた自信を取り戻す。
「んで、ほいっ、と」
誰かが聞いていたら気の抜けた、と形容しそうなかけ声とともに俺は指を弾いた。パチンと明るい音がする。それと同時に光に縁取られた窓の中に小さな人影が現れた。それこそヴェネラくらいの子どもが描いたらくがきのような見かけで、厚みはまったくない。窓のなかの平面を動く人影は見つめ続けている子どもに気がつくと、優雅に紳士的なお辞儀をした。
「私の名は『ヴェネラ父』どうぞお見知りおきを」
もう一人現れたらくがきもまた、ヴェネラの前でふんわりとスカートをつまみ上げて礼をした。
「私の名は『ヴェネラ母』どうぞよろしく」
二人はそれっきりヴェネラの事は忘れ去ったかのように自分たちに課せられた芝居を従順に演じ始めた。ヴェネラの話した物語をそっくりそのまま。その光景を維持させるために、四角の窓に指を向けながら、驚きと喜びに目を輝かせる少女を見て、俺はようやく安堵に息をついた。子どもの扱いは慣れているはずだった。でもなぜかヴェネラに対しては、ある種の緊張感と恐れをもって接していたようだ。だから俺は普通の子どもの顔をしているヴェネラを見てこんなにも安心しているのだろう。

「さ、どうだった?おもしろかったか?とっておきって言うだけのことはあっただろ?」
ヴェネラは興奮を閉じこめたままの瞳でなんどかうなずいた。
「私が話したこと、ちゃんと聞いてくれてたのね」
ほほ笑む少女に意外な思いで目を向けた。
「あなたがちゃんと聞いていてくれて、嬉しい。でも、絵と名前はあんまりだったな」
悪意なく言い切られて俺はいくらか傷ついた。名前は知らなかったし、絵は俺のイメージなんだから仕方がない。そこには触れて欲しくなかった。
「でも……」
何かを言いかけて、ヴェネラは黙り、宙を指したままの俺の指を握った。
「やっぱり……冷たい。ずっと指さしたままで疲れちゃったのね」
目を丸くしたまま何も言えずにいる俺の指を、小さな掌で握りながらヴェネラは呟いた。子ども特有の温かさをどんどん奪いながら、俺の指は体温を取り戻していく。そしてそのうちに俺は恐れをも取り戻していた。ヴェネラはやっぱり他の子どもとは違う。それどころか他のどんな人間とも異なっている。だが一方で不思議な安堵感を得てもいた。先ほどの、不安を振り切ろうとするようなものではなく、胸の奥がじんと温められるような……
 月はもう沈んでいたが、無理に手を離すことも出来ず、俺はヴェネラが眠くなるまでそのまま手を握られたままでいた。

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