[comes loose]
 
  
 

comes loose 4 「大切なものを知ってしまったから」

 冷えた夜の街を俺は一人歩いていた。寒さに自然と急かされて早歩きになる。早く家に帰って温かいお茶でも飲みたい。このごろは珍しく仕事が立て込んでいて、俺はすっかり疲れ果てていた。
 大きな屋敷の角を一つ曲がると、見慣れた道に出た。ヴェネラの家の近くだ。一瞬、通り掛かったら立ち寄ると言った約束を思い出して足を緩める。少し足に力を集めて浮き上がろうとしてみるが、激しい疲労感に襲われて諦めた。今日の俺はここ数年なかったほどよれよれだ。取りあえず一度寝ないと何も出来そうにない。明日は必ず来ることにしよう。ヴェネラには心の中で謝りつつ、足早に屋敷を通り過ぎた。
 ようやく家にたどり着き、服も着替えず寝台に寝転がると、小さな窓から月明かりが差しこんで、まともに目を射抜いた。目を細めて窓に近寄り、ふと思いついて空気を包み込むようにして両手を重ね合わせた。次の瞬間、開いた手のなかに光をまき散らしながら羽ばたく一羽の鳥が現れる。窓から鳥を放すと鳥はヴェネラの屋敷の方角へ真っ直ぐに羽ばたいていった。これで、ヴェネラには俺が訪れる事が伝わるだろう。鳥の行方を確認すると、俺はもう一度寝台の上に寝ころんで、少しの間目を閉じてじっとしていた。

 次の日、すっかりとは言い難いが、だいぶ力を取り戻した俺は、ヴェネラの部屋のバルコニーにふわりと降り立った。いつも通りの技のキレに満足する。ここに来るまでに凍えてしまった両手の指を擦り合わせながら、ノックをしようと手を伸ばしたが、待ちかまえていたかのように勢いよく扉が開いて俺は思わず二歩ほど後退った。
「ヴェネラ?」
薄いねまきのまま飛び出してきた少女は俺の腰に抱きついて離れない。
「えーっと、久しぶり……あんまり来られなかったの、怒ってるとか?」
俺の顔を見ずに頭を左右に振る。薄い色合いの金髪が柔らかく揺れた。
「じゃあ、なんだ。俺と久しぶりに会えて嬉しいとか?」
その質問にヴェネラは首を動かさなかった。でも肯定するわけでもないのか。少しばかり淋しさを感じつつも、俺はヴェネラの顔をのぞき込もうとした。が、ヴェネラが唐突に顔を上げたせいで、俺は大あわてでのけぞって、ぶつかるのを避けなければならなかった。
「あの、あのね!今日は私も連れて行って欲しいの!」
理解しきれなくて首を傾げる。
「私をここから外へ連れ出して」
もう一度言われて、驚愕した。どうやらヴェネラは俺を人さらいにしたいらしい。
「なに言ってんだよ、ヴェネラ。一緒に行くって……俺はまだ来たばっかだろ?別れを惜しむには早すぎるって」
「違う。そうじゃなくて……」
そこまで言って、ヴェネラは小さくひとつくしゃみをした。
「ほら、そんな格好で出てくるから。早く中に入んなよ」
「だめ。もうここにはいたくない」
いつになく強情な彼女にとまどう。首を傾げながらヴェネラの顔を見ていると、少女は大きな瞳を翳らせて、ぽつりとつぶやいた。
「明日、婚約者が来るの」
「はぁ?」
俺はいささか驚いた。この年で婚約者だなんて、気が早いにもほどがある。金持ち連中の間ではさして珍しいことではないかもしれないが、どうしてもしっくりこない。
「会った事もないのに。お父様とお母様が私のためだって……」
「へぇ……」
ヴェネラは納得がいかないのか、眉間に皺をよせている。せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。
「でも、あんたみたいな年頃の女の子の夢は、きれいなお嫁さんって相場が決まってるもんだけど」
その言葉にヴェネラはうつむいた。
「そんなことないよ」
「そうかなぁ」
「好きな人じゃないと、意味がないの」
強い眼差しで俺を見上げて、ヴェネラはきっぱりと言い切った。この場合、好きな人っていうのは俺のことだろうか。俺のことなんだろうな。なぜか少し悲しくなった。
「ここを出てどこに行くんだよ」
聞くとヴェネラは困った顔をする。外に出たことなんて数えるほどしかないお嬢様に、ちょっと意地悪な質問だったかもしれない。それでもヴェネラは迷ってはいなかった。
「……わかったよ。つき合ってやる。つき合ってやるから……ちゃんと着替えてあったかくしてこい」
まぶしいくらいに顔を輝かせて、ヴェネラは部屋の中へ駆け戻った。しっかりカーテンを閉めることも忘れない。
「……やっぱ女の子だもんなぁ」
締めきられた窓の外、俺はしゃがみ込んで空を見上げ、少女が出てくるのを待った。

 はじめ、ヴェネラはとんでもなく不機嫌だった。というのも、俺がファッション性を無視して、何枚も上着を着せたために、モコモコの毛玉のようになってしまったからだ。マフラーに埋まった顔の半分は、たぶんふくれつらをしていただろう。だが、そのふくれつらもすぐに笑顔に変わった。俺お得意の空中散歩がお気に召したらしい。女の子ってのは、とにかく綺麗なものと甘いものが大好きな生き物だ。刺すように冷たく澄んだ冬の空には、ちらちら瞬く星々が数え切れないくらいばらまかれていた。
「すごい、すごい。頭の上に屋根がないと、こんなにたくさん星が見えるのね」
「手、離したらだめだぞ」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、ヴェネラはすごいを連発しては俺の手をひっぱる。それに引かれて空を歩くうちに、見慣れた町並みが見えてきた。
「ヴェネラ、明日は町を案内してやるよ」
「明日?」
「ああ、今日はうちに泊めてやる」
嬉しそうに笑うヴェネラの手を引いて、俺は一つの建物の上に降り立った。平らな屋上は月の光に照らされて、ぼんやり白く浮き上がって見えた。
「いつもここから入るの?」
「ま、だいたいはな」
階下に続くドアを開きながら答える。俺は先に部屋に入り、小さな暖炉に火を灯した。真っ暗だった部屋がふんわりと明るくなる。懸命にコートを脱ごうとしているヴェネラを放っておいてやかんを持ってくると、暖炉につるす。
「お茶飲んだら寝るんだぞ」
うん。と素直にうなずいたヴェネラをベッドに座らせて、椅子に腰掛ける。
「明日はきっと、大騒ぎだなー」
結局連れてきてしまった少女をみてぼやいてみた。今更、えらいことをしてしまったものだと思う。だけど、頼み事なんてしたことのないヴェネラだったから、このお願いはなんだか叶えなければいけない気がしたのだ。
「いつ帰る?」
その質問には予想通りの答えが返された。ヴェネラは頑固に首を横に振っている。ため息をつきたくなるのを堪えて、かわりに姿勢を崩してほおづえをついた。
「帰らなきゃ、心配する人がいるだろう」
「……帰らない」
ヴェネラは頑なだった。いつもは物わかりのよい、素直ないい子なのに。ヴェネラは俺がいれたお茶のカップを両手で包み、少しずつ飲んでいた。それきり話すタイミングを失って、俺とヴェネラはひたすらカップを傾けた。先に口を開いたのは、早くカップを空にした俺の方だった。
「……わかったよ。あんたの気がすむまでつき合ってやる。最初にそう約束したもんな」
それには反応を返さず、ヴェネラはもう一口お茶を含んだ。
「ヴェネラ?」
「……ありがとう」
そのありがとうは全てを判った上でのものだった。俺への迷惑も周りの人間の心配も、自分の身勝手さも。だから俺は何も言うことができなかった。

 次の日、パンとスープの軽い朝食を済ませた俺は、約束通りヴェネラを連れて家を出た。暖かい日差しの中で、ふと、こんなに明るい場所で彼女を見るのが初めてだということに気がついた。ヴェネラの髪は思っていたよりも薄い色で白に近い金色だ。目もわずかな星の灯りの下で見るより、ずっと明るく輝いて見えた。
「あなたって、夜のかたまりみたいね。髪も目も、着てる服も真っ黒」
ヴェネラも同じ事を考えていたようで、俺は思わず苦笑した。
「確かに。昼だとちょっと浮いて見えるな」
逆にヴェネラは昼の方がよく似合って見える。
「あんたは昼間に原っぱに転がってそうな感じ」
「そんなことしたことない」
「そうだろうな」
でも、そんな姿が何より似合ってると思うよ。
どうでもいい話をしながら、俺とヴェネラは人がひしめく町の市場にたどり着いた。その活気あふれる様子に目を丸くしている彼女の手をしっかり握って歩く。小さなヴェネラが潰されてしまわないように、できるだけ人の少ない空間を選んで進んだ。
「大丈夫か?」
「うん。……いつもこんなに人がいるの?」
「まあな。ここらには店が少ないから、みんなここに集まってくるんだ」
「ふうん……あっ」
興味深そうにきょろきょろしていたヴェネラが突然立ち止まった。後ろから人が押し流そうとしてくるが、流されないよう、懸命に足を突っ張った。
「なに?なんかあったのか?」
ヴェネラのいる場所を守りながら、引きつった顔で尋ねる。けれどヴェネラは俺の努力も知らないで、心のひかれるままに歩き出した。
「ちょ、おい」
「あの子、困ってるみたい」
ヴェネラの向かう先には彼女よりも小さな男の子が立ちすくんでいた。おろおろと頼りなげに視線をさまよわせ、行き交う人の波に圧倒されている。
「ねえ、大丈夫?」
男の子は声をかけられて驚いているようだった。目を丸くして俺たち二人を見ている。
「どうしたの?道に迷ったの?それとも人が多くて向こう側へ行けないとか……?」
驚く男の子にヴェネラは優しく問いかけた。子供同士で安心したのかもしれない。男の子は俺の方を気にしながらも、ヴェネラに一生懸命訴えた。
「母さんを捜しているんだ。どんなに捜してもみつからなくて……ずっと会えないんだ」
「そうなの……はぐれちゃったのね」
ヴェネラは周りをきょろきょろ見回すと、最後に俺を見た。その目がこの子を助けてあげようと言っている。
「仕方ないなぁ。ほら、坊主。名前は?年は?」
「キオ。7才」
「キオ。今からあんたの母さんを捜すために、記憶を見せてもらうから。母さんのこと、一生懸命考えときな」
ゆっくり頷いたのを確認して、俺はキオの頭に手を乗せた。
「母さんは何歳だ?どんな人でどんな顔をしてる?別れたときどこにいた?」
訊きながら、答えは聞いてはいない。俺は頭の中でひらめく断片的な映像を懸命につなぎ合わせていた。
「……キオ、あんた家は?家はどこにある?……今住んでるところは?」
また、腕を通り抜けてキオの記憶が流れてくる。今度はさっきより余程まとまった映像を見る事ができた。
「……」
「ねぇ、この子のお母さん見つけられた?」
キオの頭に手を乗せたまま黙り込んでしまった俺にしびれをきらしたのか、ヴェネラが袖を軽く引いた。
「ああ。いや……ううん。見つけてはないけど……」
キオの母さんの居場所はすぐにわかった。けれど、説明するのに上手い言葉がみつからない。
「キオの母さんな……いないんだ。もう。この世のどこにも」
ヴェネラは不思議そうな顔をした。キオは変わらず不安そうにしている。俺の言葉への反応は薄い。届いていないかのようだ。
「だから、亡くなってるんだ。今年の秋に。父親もいない。今は親戚の家に引き取られてる。……家まで送ってやろう」
ヴェネラとキオの手を引いて歩き出しながら、俺は苦い思いを味わっていた。どうしてこんな気持ちになるんだろう。以前は事実を簡潔に口にすることができたはずなのに。こんな風に後悔とも落胆ともいえない気持ちになることもなかったのに。
 キオの家に着くと、彼の叔母だという人がキオの事を心配して待っていた。キオを家に返すと俺たちは来た道を逆にたどっていった。日は真上を過ぎて傾きかけていた。
「すっかり遅くなっちまったけど、昼飯でも食べるか?」
俺のすぐ後ろを歩くヴェネラに尋ねる。だが答えはなかった。
「あの子……可哀想ね。あんなにお母さんを捜していたのに、いないなんて……」
ずっと考え込んでいたのだろうか。ヴェネラの声は沈んでいた。
「そうだな。でもまだ幸せかもしれない。あいつのことを心配してくれる家族がいるんだから。可哀想かどうかは本人にしかわからないだろ」
「……でも私は、可哀想だと思う」
「だろうな」
俺は歩くのをやめて後ろを振り返った。ヴェネラは今にも泣きそうな顔をしていた。
「そう思うのは、あんたがそうだったら淋しいだろうと思うからだ。あんたにとって家族が大事なものだからだ。……ヴェネラ、家出はもうおしまいだよ」
帰ろう。と言うと、ヴェネラはなにも言わずに頷いた。
 ヴェネラを屋敷の前まで送り届け、自分の家に戻ると、片づけ忘れていた二つのカップがテーブルの上に置きっぱなしになっていた。ふと、昨晩、気がすむまでつき合ってやると約束したことを思い出した。……約束は守れただろうか。
 俺は大切なものを持っていなかった。だから簡単に捨ててこられた。けれど、ヴェネラはそうではないだろう。そしてそれは小さな意地で失っていいものじゃない。自分の持てなかったものだから、彼女には大切にして欲しい……
「……なんて。勝手だな、俺は」
いつの間にか日はすっかり沈み、空には昨日よりも少し欠けた月が浮かんでいたが、黒い雲にまとわりつかれて翳り、弱った月光もいつしか見えなくなってしまった。冷たい雨が降り始めるまでいくらもかからなかった。

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