comes loose 3 「祈るなんて、俺らしくもない」 今日も俺はヴェネラの部屋の小さなバルコニーに降り立っていた。季節はすっかり冬に変わり、吐く息も白い。だけど、そのかわりに早く暗くなるから、その分俺も夜の闇に紛れて早く来ることができる。子供に夜更かしさせずにすみそうだ。いつものようにコツコツと中指の関節で窓を叩き、俺は一歩後ろに下がって足音を待った。しかし、扉の向こうは静まりかえっていて人の気配はない。窓の向こうにぼんやり透けて見えているランプの明かりも小さく、主人の不在を伝えていた。幾分がっかりした気分になって、俺は以前より少し高くなったバルコニーの柵に腰掛けた。ヴェネラはどこへ行ったのだろう。ぼーっと曇った空を見ながら考える。俺は待っているつもりか?こんなに寒いのに?とりあえずコートのポケットに手をつっこんで手を温めてみた。 「寒ぃなぁ……」 呟いてみても応える者は誰もいない。頭が重くなって、なんとなく一つ溜息をついた。待つことにはあまり慣れていない。いつ帰ってくるかわからないものを待っているなんて、堪え性のない俺には到底無理な話だ。それでも帰るのを渋っている自分がちょっと意外だった。 「やっぱ、帰ろう」 そうは言ったものの、なかなか体は動かない。冷たい柵に手をかけて、数秒目を閉じた。ふと、後ろの方へくらりと傾いて慌てて柵を掴む。もう少しで落ちるところだった。ヴェネラが見ていたらあきれたかもしれない。 危ないまねはやめて、俺はおとなしくバルコニーに戻った。もう一度扉を叩いて、反応が無いことを確かめ、踵を返す。うーん、と腰をのばして首を鳴らすと、俺は右足のつま先でバルコニーの床を三度叩いた。瞬間、体重が無くなって体が軽くなる。そのまま柵を乗り越えて飛びだそうとしたとき、待っていた少女の声が聞こえた。 「待って!」 「……ヴェネラ」 振り返ろうとして、またバランスを崩す。 「おっとと……」 苦笑いしながら少女を見ると、ヴェネラは真剣な顔で、俺の肩口を掴んでいた。言葉もなく、一生懸命引き上げようとする姿をみて、思わず頬が緩む。 「やめな、あんたまで落ちるだろ」 服を掴む手を引きはがして、俺は柵に乗せた手に力をかけて、ふわりと浮き上がり、バルコニーの内側へ舞い戻った。ヴェネラがほっとした顔をする。 「心配した?」 冗談のように投げかけた俺の言葉に、ヴェネラはきまじめにうなずく。 「もう帰ろうかと思ってたんだけど、あんたが来たからもう少しいようかなあ」 ヴェネラがまたうなずく。その反応が嬉しくて、俺は彼女の頭に手を乗せた。 「どうしたの?」 「何が?」 見上げてくる少女の瞳を、頭を撫でながら見つめる。 「なんだか……」 「?」 目線を合わせようとしゃがみかけて、また体が傾いだ。 「あれ、っとと……」 床に手をついて体を支える。前から伸びてきた手が額に触れ、その冷たさに思わず顔をしかめた。 「熱い。熱があるみたい」 「熱?」 自分で手を額に当ててみる。それほど熱い気はしなかった。首をかしげてみせるが、ヴェネラの顔は真剣なままで、手を握ってくる。その手はやっぱり冷たかった。 「ヴェネラ、あんたどこ行ってたんだよ。手が冷たい」 「私の手が冷たいんじゃないよ」 眉を寄せたヴェネラは心配そうだった。 「来て」 そのまま俺の手をひいて、暗いままの部屋の中に入ろうとする。それはまずい、と俺は足を突っ張った。 「俺は入らねぇよ。淑女の部屋にお邪魔はできないだろ」 そんな俺の言葉は無視された。小さな体の全体重を俺の腕一本にかけてくる。普段と比べて力の入らない俺の体は部屋の中に引っ張り込まれてしまった。 「駄目だって言ってんのに」 あきれて呻く俺をベッドに腰掛けさせて、ヴェネラは両手を腰に当てて俺を見た。なんだか常にはない威圧感を感じる。 「風邪をひいたらおうちで暖かくして寝てないと駄目なのよ」 「だから、おうちに帰るとこだって言っただろ」 「そんなにふらふらでちゃんと帰れるわけないじゃない」 促されるままに小さなベッドに寝かされて、俺はようやく自分の体調の悪さに気が付いた。ちょっと起きあがれる気がしない。ああ、それでか。動くのがおっくうだった理由がやっとわかった。体も重いし頭も重い。 「でも帰らないとなぁ」 「なんで?」 なんでって、そりゃ俺が不法侵入やってるからだよ。ヴェネラにとっては友達の一人かもしれないが、こんなに年の離れた男が、夜中に娘の部屋を出入りしてたら親はどう思う?駄目だろ、やっぱ。 「だって、秘密の友達だろ?見付かったらまずいからだよ」 ふうん。と呟いて、ヴェネラは部屋を出て行った。一気に部屋の中が静まりかえり、部屋の暗さが増す。同時に忘れかけていた寒さまで戻ってきた。毛布の中にいるのに、これほど寒いのはおかしい。何年ぶりかわからないくらい久しぶりの感覚だ。風邪なんか最後にひいたのはいつだっただろう。 「なんにせよ、こんなに心配されたことはないな」 呟いて、より深くベッドに潜り込む。暖かい毛布にくるまり顔だけ出した間抜けな格好で、俺は重たく下りてくる瞼と必死に戦った。 眠気も限界に達したころ、キィ、と小さな音が鳴って、扉が開いた。いつもよりもぼんやりした頭で扉の向こうを見つめる。光を背にして、小さな影がゆっくりと部屋に入ってくるのが見えた。ヴェネラは普段よりもずっとゆっくり、手のひらで包み込んだカップを見つめながら近づいてきた。カップの中で揺れる液体がランプの明かりを反射して光っていた。 「何しに行ってたんだ」 ほとんど瞼を閉じた状態でかけた言葉は自然とささやき声になった。 「ココアを入れにいっていたの」 それにあわせてか、少女も小さな声でこたえを返す。そのまま差し出されたカップからは、暖かそうな湯気と甘ったるい香りが漂っていた。 「甘そ……」 なんとか気合いで体をおこし、差し出されたカップを受け取る。その温かさに体の奥の凍えていたものが少し収まったような気がした。促されるままにカップを傾け、一口、口に含んでみる。 「甘い」 思った以上に甘くてとまどったが、そのままもう二口ほど飲んでみた。隣ではヴェネラがじっと俺を見つめている。感想を待っているのだと気が付いて、カップをてのひらに包み込み視線を合わせた。 「どう?温かくなった?」 「そうだな、だいぶ温かくなったよ。ありがとう」 言って、一気に飲み干す。底にたまっていた砂糖が口に入り、眉をしかめたが、ヴェネラには気付かれなかったようだった。 体が温まると、さっきまでの睡魔が再び襲ってきた。目を開けているのが、こんなに辛く感じたことはない。 「ココア、ありがと。あんたも手、冷たかったのに、俺が飲んじゃって……悪かったな」 俺の言葉にヴェネラが首を横に振る。 「えーっとヴェネラ……」 「ねえ、やっぱり少し寝たほうがいいよ。まだ熱いみたい」 俺の手を握ってヴェネラが言う。 「でもな、寝ちゃったら帰れないだろ」 笑って言うと、ヴェネラも少し考えて頷いた。 「そうだね。……じゃあ……熱が下がるようにおまじないをしてあげる」 ヴェネラは俺に、目を閉じて十数えるように言った。おとなしく目を閉じると、彼女の冷たい手が俺の額に触れて、汗ではりついた前髪をよけた。 「今から10ね」 「あぁ、はい。……いーち……にーい」 ふと、まぶたの向こうで少女が動く気配を感じた。 「……はーち……きゅーう」 おまじないって、やっぱ母親直伝なんだろうなぁ。とかなんとか考えているとき、近づいてくる気配の後に、額に柔らかくて暖かい物が触れて、思わず目を開いた。目の前にヴェネラの大きな瞳が写る。言葉を失う俺に、ヴェネラは柔らかくほほえんだ。 「ちゃんと数え終わらないと駄目なのに」 「あぁ……ごめん。……じゃなくて、今のはお母さんが?」 「うん、教えてくれたの」 うなずくヴェネラの笑顔を見て、なんだか微笑ましくなる。家族というものが凄く温かいものに感じた。いつもヴェネラはその笑顔で俺の知らない綺麗なものを教えてくれる。 「そっか、やっぱなー……」 納得して、俺は静かに目を閉じた。ヴェネラの声は温かい。沈んでいく意識の中で、俺は遠くなっていく声にずっと耳を傾けていた。
目を覚ますと、まだ窓の外は暗く、寝入る前よりもずいぶん冷たい空気が部屋を満たしていた。 「あー、結局寝ちゃったか……」 体をおこすと、ベッドサイドの椅子で、もたれかかる様にしてヴェネラが眠っているのに気が付いた。新しく引っ張り出してきた毛布にくるまって丸くなっている。 「大人としてどうよ……」 自嘲しながら、ベッドから抜け出すと、丸まった少女を抱き上げた。温かいベッドに寝かせて、少しだけその顔を見つめた。大きくて瞬きの少ない目は今は閉じられて、小さく開いた口から静かな寝息が漏れている。 「俺の風邪がうつらないといいんだけど」 言いながら、少女の額にかかった髪をかき上げた。そのまま軽く額に口づける。少し待ったが、起きる気配は無かった。 「おまじないがちゃんと効くよう、祈ってるよ」 ヴェネラのおまじないは俺にはよく効いたようだった。重くて動かすのがおっくうだった体が驚くほど軽くなっている。音をたてないよう、慎重に窓の外に出て、バルコニーの柵に足をかけ、そのまま夜の闇にとびこんだ。鋭く冷たい夜風がまだ熱を持った頬に心地よく刺さる。あれほど酷かった悪寒はすっかり消えて、体の中から発するようなやわらかな暖かさだけが残っていた。 back * next |